対話主事通信「いろとりどり」2023.6月号
2月から5月にかけて道端のあちこちに小さな青い花が見られました。可愛らしい花ですが、名前は「オオイヌノフグリ」。なんとも変わった名前です。ほかにも「ハキダメギク」なんていう名前の野草もあります。これらの名付け親は、植物学者の牧野富太郎さんだそうです。
4月NHK朝ドラ「らんまん」がスタートしました。
「春らんまんの明治の世を天真らんまんに駆け抜けたある天才植物学者の物語。その喜びと発見に満ちた生命力あふれる人生を美しい草花の情景とともに描き、日本の朝に癒しと感動のひとときをお届けします。時代は幕末から明治、そして大正・昭和へ。そんな激動と混乱の渦中で、愛する植物のために一途に情熱的に突き進んだ主人公・槙野万太郎とその妻・寿恵子の波乱万丈な生涯を描きます。」とNHKは紹介しています。
主人公のモデルはもちろん、植物学者の牧野富太郎さんです。
ここ数年、ウォーキングをしている時に目につく野草に少しずつ興味がわき、道端の草にも目をとめるようになってきました。牧野富太郎さんについては、植物に何かしら関係している人程度で詳しくは知りませんでした。ドラマが始まっていい機会なので、牧野富太郎さんについて少し調べてみました。
亡くなる94歳までに収集した植物標本は約40万点。描いた植物図は1700点。1500種類以上の新種や新品種の植物を命名。日本植物分類学の基礎を築いた一人。
ペリー来航に始まる幕末動乱の時代の1862年、高知県の酒造業を営む裕福な商家の長男として誕生。物心つかないうちに両親と祖父を相次いで亡くし、祖母に育てられた。ひとり、草木と遊ぶのが好きな子どもだった。
寺子屋などで学んだ後、領主深尾氏が建てた名教館に入学して西洋の最先端の諸学科を学ぶ。1874年に学制がひかれ、名教館が小学校になって通い始めたものの授業に物足りなさを感じて2年後の14歳の時に退学。退学後は、周辺の山々に出かけては植物採集に励む。土佐の豊かな山野で実地に学んだことが富太郎の学問の原点となった。
15歳から17歳まで地元の佐川小学校で臨時教員を務めた後、高知市に出ていき、出会った中学校教員から新しい科学としての植物学を教えられた。22歳で上京し、東京大学理学部植物学教室で本格的な植物学に没頭。1887年、友人と「植物学雑誌」を創刊し、巻頭を富太郎の論文が飾った。1889年、高知で発見した新種に日本で初めて「ヤマトグサ」と学名をつけて「植物学雑誌」に発表。これこそが、日本人が外国の学者に依存せずに自らの手で学名をつけることができた記念すべき瞬間であった。
『日本植物志図篇』の刊行や新種の発表など目覚ましい活躍を見せる一方、研究のための出費で実家の経営は傾き、29歳の時、家財整理のため帰郷。高知で植物採集や写生に励んだ後、31歳の時再び上京。様々な困難に遭遇しながらも帝国大学理科大学助手として精力的に植物の研究を進めた。自らを「草木の精」というほどの植物への深い愛情と家族や周囲の知人の大きな支えがあり、どんな状況下でも決してあきらめることはなかった。
1926年、今は練馬区立牧野記念庭園になっている地に居を定めたが、翌年、献身的に尽くしてくれた妻、壽衛子(すえこ)が亡くなる。富太郎は、仙台で発見して間もないササに妻への感謝の思いを込めて「スエコザサ」と命名。悲しみを乗り越えて各地に赴いて採集に励む一方で植物図鑑の編集に取り掛かり、10年近い歳月をかけて『牧野日本植物図鑑』を誕生させた。大学退職後も『植物記』などの植物随筆集を執筆し出版した。
最後に、調べていて心に残ったエピソードをひとつ。
「世の中に雑草という名の草はない。どんな植物でもみんな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草と決めつけてしまうのはいけない。注意するように。」
これは、御所の庭に生い茂った「雑草を刈りました。」と報告した侍従に昭和天皇が話された言葉ですが、この「雑草という草はない」は、牧野富太郎さんの言葉の引用なのだそうです。
生涯をかけて植物を愛した牧野富太郎さんの思いを、ひと言でよくあらわしている言葉だなと感じました。
全家研ポピー浜松支部 教育対話主事 鈴木育代
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